「エッセイ/平成史」
「平成史」
今少し時間があるので、「投資」に次いで塾生によく聞かれる「平成」という時代について、少しメモを作っておきます。
以下は、自分が実際に生きて、見聞きした事柄に基づくので、所謂、普通に世間で語られている「平成史」とは違うかもしれません。
実際、筆者は普通に語られている「平成史」にはかなり違和感をもつのがいつものことです。
それでも、短いものですが、筆者がこれから語る「平成史」にもそれなりの価値はあると思っています。
何せ、実際に、この目で見て、この耳で聞いて、全身で経験してきた事に基づいて語るのだから。
では、家族に関することは省き、自分個人の部分に限って、6、7枚くらいでまとめてみます。
*
1989年1月に「平成」という時代は始まりました。正確には1月8日に始まっています。
この時、筆者は19歳になったばかりで、まだ大学1年生。芸術工学部に在籍し、大橋でジョギングと読書と家庭教師の日々を送っていました。
とにかく、その3つだけ。とても充実していました。
時代は、バブル。街中には「ソアラ」や「シーマ」のような高級車があふれ、BMW3シリーズが、カローラ並みのステータスしかもたない時代でした。
大学入学当初から英語の勉強のために英字新聞(ジャパンタイムズ)の購読を始めていました。
テレビは持たず(今も持っていません)。よって、外からの情報はその英字新聞を通して入ってきました。
1990、1991年(21歳)はイラクのクウェート侵攻、そして湾岸戦争のニュースでもちきりでした。
このニュースだけでなく、1990年代のニュースには主に英語で接していたので、「湾岸戦争」は「Gulf War」と表現された方が、体の奥底からしっくりときます。
不思議な感じですが、「湾岸戦争」という日本語は、どこか翻訳調のような気がします。
「戦争終結」も「This war is now behind us.」と言われた方が、しっくりときますね。
1992年(22歳)は、バルセロナオリンピック開催の年。興味があるのはいつもマラソンだけなので、そのニュースだけはしっかりとチェックしていました。
男子マラソンは最後まで接戦の末、森下さんが銀メダル。女子マラソンも有森さんが銀メダル。二人とも、大健闘でした。
1993年(23歳)は、特に記憶はありません。
1994年(24歳)は、F1ドライバーのセナが事故死し、大江健三郎さんがノーベル文学賞をとったことくらいかな。
1995年(25歳)は、windows95発売の年ですね。販売キャンペーンが凄かった。
1996年(26歳)は、アトランタオリンピックの年。有森さんがまたもや入賞し、銅メダルをとりました。
・・・と、ここまでは何とか世間のニュースに付いていけていたような気がします。
ところが、1995年、25歳の時に始めた塾が、とにかく忙しくなり、それはもう忙しく、忙しく、以後、世間一般のニュースに接するどころではなくなりました。
以来、世間一般とはほぼ音信不通状態です。
英字新聞はほぼ積読状態になり、代わりに『アントレ』という起業雑誌がほぼ唯一の情報源となっていきました。
そして気付いたら、もう2002年(32歳)、2003年(33歳)、2004年(34歳)、2005年(35歳)。
この頃、一体世間にはニュースなどあったのでしょうか? というくらい、ほぼ世間と没交渉の生活を送っていました。
塾の仕事は一息つき、だからといって、日々のニュースなど見る気にもならず、ただ時間だけが過ぎていくような日々でした。
そんな中でも、2007、2008年(38歳)、某大手企業の食品事件のニュースだけは覚えています。塾生の一人から、かなり詳しくそのニュースの詳細を聞いて、それでそのニュースのことが記憶に残っているのです。その時、「アラフォー」という言葉も教えてもらいました。
でもまたそこから記憶が途切れます。2005年春から、英文学の勉強の総まとめとして『イギリス文学史』という本を書き始めて、30代後半はその調査と執筆に没頭していました。
本当に、走って、読んで、教えて、以外の記憶はなし。
2012年3月に、それを一応終わらせて(というか、やり続けると10年でも20年でも続けてしまいそうなので、一応7年で執筆作業を打ち切り、一応の形としました)、ほっと一息。
でも、20代の頃からどうしても書き残しておきたいテーマがあったので、またすぐに調査・執筆の生活が始まりました。
そして、今です。
その結果、またもや、2012年から今までの記憶はほとんどなしです。
こうして振り返ってみると、平成の30年間は、何か特別なことがあったかなと考えてみても、オリンピックのマラソンで日本人選手が健闘したことくらいで、終わってしまったような気がしないでもありません。
普通の人の生活は、昭和の時代、そう、1989年1月の時点での生活と、ほぼ大差がないような気がします。
よく世間では「失われた30年(20年?)」とかよく言われているようですが、「それはどうかな?」といつも疑問に思います。
そもそも1988、1989年の昭和の終わり頃に失われて困るようなものは無く、そうであれば、(何も失うものが無かったのに)「失われた30年」なんておかしな言い方でしょ?
それどころか、僕自身の実感では、この30年、ずいぶん世界が暮らしやすくなっています。便利に、物価も非常に安くなっています。
要は、「失われた」どころか「得たものばかりの」30年という感じです。
*
以上、「平成史」をざっとまとめてみました。
これから加筆(そして若干の修正)をすることもあるかもしれませんが、一応これを第一稿としたいと思います。
2019年3月15日記