「賢い若者、そうでない若者3」
「賢い若者、そうでない若者3(60年先の自分に喜んでもらえるように)」
7月15日、水曜日、曇り。
今月初旬から始まった大雨は、一応収まった様子。
今日も洗濯物を外に干せました。
服などの他にもジョギングシューズも洗い、陽の光で乾かしました。
来週になればまた、毎日快晴の日が戻ると思います。
あと少しの辛抱です。
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さて、今日は昨日までのトピックを続けます。
昨日までは「賢い若者、そうでない若者」とタイトルを書いておきながら、「賢い若者」の方については書いていなかったから。
もちろん「そうでない方」の例を裏返せば、語らずとも「賢い方」のタイプが自ずと理解されると思うのですが、この際だからきちんと書いておきます。
このトピックについて書いている内容のバランスをとるためです。
昨日、「賢くない人達」、その最悪の場合には社会に多大な迷惑を掛けるような人達は、「手っ取り早い方法」や「安易な方法」を選ぶ人達だと書きました。
「賢い人」は、そもそも「手っ取り早い方法」や「安易な方法」をとらないからです。
「賢い人」は、自覚的または本能的に、自分の人生の先々のことを考え、コツコツと実績を積み重ねていく方法と道を選びます。
一言断っておきますが、ここでは「賢い人」の意味を、生まれつき知性があって勉強が得意な人だとか、その他、生まれつき何かの才能があって、それでそのように呼ばれるような人だとは定義しません。そんなことをしても、読む人は白けるだけです。ですからそういう定義の仕方はしません。
僕がここで「賢い人」と定義するのは、生まれた時点から全員平等にそういう存在になれる可能性があって、あとは本人の意志次第でそうなれるというものです。
もちろんその前提として、昨日も書いた「自分の能力の限界を知る」ことができることが必要です。でもそれも生まれつきどうこうというのではなく、自分を真摯に見つめれば自ずと理解されることです。
人が、自分の力で生きていける18~20歳位になった時、60年後の自分の姿をイメージし、そのイメージに向かい、その後60年間コツコツと実績を積み重ねていけるかどうか、それが「賢い人」か「そうでない人」のどちらになるかの分かれ目です。
身近にそのモデルとなる人がいれば幸いなるかな。
でも、そういうモデルとなる人に出会えなくても、自分の人生の先々を真剣に考える中で、良い本などとの出合いから、自ずとそのような生き方を知り、そのような人生を選ぶことはできます。
自分の人生の幸せを第一と考えれば、その結論は当然のものとして導かれるはずです。
最後に1つだけリアルなエピソードを紹介しておきます。100%実話です。
自分の18歳の秋のことです。
岩波文庫で『共産党宣言』という本を読みました。その年のGWから始まったドイツ哲学探究の最中での出来事です。
大橋(福岡市南区)の大学近くの本屋さんで買い、家に帰って読みました。
面白かった! そして、あまりの面白さにゲラゲラと笑い出しました!
これは、リアルに実話です。
読みながら思ったのは、「きれいだなあ…!」ということ。それはため息が出るくらいでした。社会あるいは世界を、一つの視点で切り取り、そこに一つの理論を提示していた。
それはとても美しかった。
でも、18歳の僕は、人生経験がまだそれほどなくても、「これはきれいすぎるな」とそこに安易さを見て取り、ゲラゲラという笑いを止められなかった。
ヘーゲルやマルクスを読んでも、人の本当の幸せの掴み方なんてどこにも書かれていないことに気付きます。
まあ、ドリフのコント程度に、その極端な偏り具合に面白さを感じることができますが…。
それから間もなくして、その有名な本が、昨日「賢くない人」の例として挙げたような人達の聖典として読まれることもあると知りました…。
さて、以上で今回のトピックは完結とします。
若い人の参考になれば嬉しいです。
2020年7月15日、九大進学塾、作家カフェバー、メモ